2015年6月21日日曜日

音声解説付き 過ぎ越しの購いを隠すキリスト教のサタニズム

マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。

レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない
23:7 その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。

↑レビ記の記述とマタイの過越の日程が異なるのが解る

 

、除酵祭の第一日に過ぎ越しの食事はしない 、除酵祭の前の日が過ぎこしなのである なぜ 意図的に このような 操作をしたのか 

すなわち除酵祭の最初 である キリスト を 金曜日の安息日 に 処刑されたキリストに摩り替えることにより律法の購いの意味を変えるためである
受難日とは言うが 過ぎ越しの日とは言わないのはそのためでる

正確には
火曜の日没~水曜の日没 → 過ぎ越し
水曜の日没→木曜の日没 →、除酵祭の第一日 働いてはいけない

水曜日没
木曜の日没
金曜の日没
土曜の日没

土曜の日没後復活
日曜の朝マグだらのマリアが墓に行く

律法の成就のため過ぎ越しの日に購いとなられた

2015年6月19日金曜日

キリスト教が隠したい 愛するという言葉の意味

ローマ
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

愛するというと思いと心 力 精神 をつくし戒め(申命記の教え)を守る事と聖書に書いてありますが又
私を愛するものは私の戒めを愛するとあります戒めとはトラーのことです
トラーは多様性があり一言では語れませんがトラーの中に愛でありみこころを悟りなさいと言う意味なのです。
トラー律法をキリストと切り離しトラーの重要性を隠し博愛 ヒューマニズムに置き換え 
違った福音に変え変質させているのです

キリストにより成就されたとラーは規定が廃棄されただけであり未だに変わらず有効です
人間的なヒューマニズムなどでは無くトラーを通して理解した御心なる愛で無ければならないのです
一面的な受け取り方は危険
キリストはは愛だとい う方がいらっしゃいますが 確かにそうですが 裁く方でもあり 試される方でも あります 一面だけではありません 人に受け入れやすいのは 愛の方と言えば心地よいので 人間的心地よいものを
信徒を集めやすいように利用しています 真の御言葉からは程遠い偽者のなっています
心にも無い偽善を撒き散らして糞まみれにしています。
 
  聖書を読めば一目両全ですが 愛という言葉には 練られることもあり 失敗により学ばされることもあります
私を愛するものは 私の戒めを愛すると言っておられます 受け入れやすいものもあれば 人にとっては 受け入れにくい ものもあります。 人間の創造する表向きな愛というものではありません。

2015年6月12日金曜日

わたしの罪により キリストが十字架にかかり 贖ってくださった は 大嘘


 
キリストはトラーの罪によって罪無き方であるのに全き子羊として過ぎ越しの生贄として処刑されました。  
よく勘違いされているのは 原罪と言う視点から見られる事が多いのですが トラーは完全であると書いてありますので 原罪も含んであるはずです。
ですから 罪は 的外れ と キリスト教会は教えていますが 
これこそ 的外れで トラー 律法による罪を罪とバイブルでははっきり何度も言っています 

ガラテヤ
2:19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身

このような事は学者であればわかるはずですが そういってしまうと 何か不都合があるのかもしれません やはり キリスト教会ではキリストの購いの真相をを隠したいようです。
ローマ
7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

よくあなたの罪私の罪の為と言いますが トラー律法の罪の為です あなたの罪は限定的で 原罪をさしているように思います。トラーの言っている完全な罪の許しでなければなりません。トラー律法による罪>私の罪です  人間は原罪があるので罪が解らないと書いてあります ですから 律法なしに 感覚的な 罪だけでは わからない と言っているのです  罪が解らずに 何から 購い出された と言えるのでしょうか



罪とは何かローマ署にはっきり何度も書いてあります。
ローマ
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
5:11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
5:13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
5:16 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
5:20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
5:21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

2015年6月9日火曜日

動画によるブログ解説  騙されています キリスト教に ブログ解説

 
訂正とお詫び キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇ったは
聖書の記述が正確でないため一部証明できない箇所があります 正確に調べて後ほどお知らせします
マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない

使途信条では贖いは成立しない

使途信条では贖いは成立しない
使途信条でポンテオピラトに十字架に付けられた事になっていますが
キリストは律法を全うする為 成就させるために来たと言っておられます。ローマ人であるピラトの外国人による外国の法律により処刑されたのであれば罪なき 全き 子羊で 律法の裁きにより 過ぎ越しの日に律法により処刑されなければ 律法の成就にはいたりません
これ 聖書を読めば常識です。 外国人によって 処刑されても律法の成就にはいたりませんから 贖いは成立しません  そこを言わなければ贖いの意味が無いので無力化されているだけです。
...
例のテレビでおなじみのアホおじさんが youtubeで説明していますが
このような ニケア信条 381年に作られた キリストの弟子の教えとは無関係なものを教理とし弟子の教えとしています。コンスタンチヌスが統治しやすいよう変質させたもので ご丁寧に キリスト教が キリストの贖いの意味をずらし 反キリストに 貢献しているわけですからお笑いです。

キリステ教のみなさん今日は 今日も聖書を読んでいますか

キリステ教のみなさん今日は 今日も鼻くそをほじりながら聖書を読んでいますか


訂正とお詫び キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇ったは
聖書の記述が正確でないため一部証明できない箇所があります 正確に調べて後ほどお知らせします
マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない


常識とされているうことですが↓ これらは 真っ赤なうそです。
これを↓否定すればキリスト教ではなくなるらしいですが
聖書を読めば解はずです。ただし 鼻くそをほじりながら似非牧師の教理だけ聞いているだけの信仰心の無い自分で考えない阿保にはわかりません。いわゆる 洗脳状態で言われたことをオウム返しにするだけです。生活に信仰の無い人の証明なのです 残念ながら 牧師をはじめほとんどがそういう人たちばかりになっていました。

キリストはワタスの罪のために十字架にかかりました。
ポンテオピラトにより十字架にかかりました。
★神は三位一体である
罪とは的外れと言う意味である
ユダヤ教から出たのがキリスト教である
キリスト教はキリストの弟子から始まった
★キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇った
十一献金はマラキに書いてある

これらは全て嘘です 何の根拠もありません どれひとつ聖書にも書いてありません。
ぜひ どこに書いてあるか 探してみてください。あったらおしえてください


キリストはワタスの罪のために十字架にかかりました。 

 どこにワタシの罪と書いてありますか?新訳で探しましたが一箇所もありません

ポンテオピラトにより十字架にかかりました。

 ピラトは私には関係が無いといって手を洗っています。

罪とは的外れと言う意味である
 
 罪とは律法の指すものとかかれています

ユダヤ教から出たのがキリスト教である

  キリストは終始ユダヤ教の学者と対立しています。

ユダヤ教から出たのがキリスト教である

 キリスト教会の始祖はペテロだそうですがパウロは無割礼のもの ペテロは割礼のもの
つまりペテロはユダヤ人や北イスラエルに使わされたといっていますからこれも聖書にはありません。


キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇った

 ヨナのしるしは3日3夜ですから日にちが合いません これには重要な意味が隠されています。

十一献金はマラキに書いてある

 十一献金はレビにせよと書いてあります。レビは今キリストが大祭司を勤めているので
レビはいません


これは実際聖書に書いてあることです 本当かどうか 鼻くそをほじくりながら調べてみてください
バカさ加減がわかります

★は後に決められたことですキリストの教えとは関係がありません。

ひとつづつ 記事にしていきます

2015年6月8日月曜日

ユダヤ教とキリスト教  は キリスト自身に対抗する

ユダヤ教とキリスト教  ユダヤ教が旧約聖書で キリスト教が新約聖書

ユダヤ教は 律法(情けが無く融通が利かない)ので キリストの愛がわからずキリストをを殺した

と言うのが通説ですキリストはユダヤ教の無慈悲によって殺されたのですと彼らはいっているのです。
 
 
 
しかし真実はそうではなく ユダヤ教がモーセの教えと異なっていたことから 始まります。
 
例えば わかりやすい例をあげると モーセは大祭司しか帽子をかぶるなと言っていますが ユダヤ教はみんな被っています
メノラーはろうそくで作っていますが モーセはランプで作れといっています
アブラハムは御使いを ミルクと肉でもてなしていますが ユダヤは厳格に分けて食事しています。
 
簡単な例を挙げればわかるようにヘブライ信仰(モーセ)の教えを随分歪めたのがユダヤ教です
その他にもタルムッドというものがあり 関係ない教えを付け加えています。

キリストはヘブライ信仰から出ています  から これら ユダヤ教の付け加えられた教理と対立しています。本当に殺された理由はそこにあります。

構図は ヘブライ信仰 本物のキリスト vs ユダヤ教 キリスト教 ということになります。

キリスト教の母体はユダヤ教になっていますキリスト教が対立するキリストを崇めているのですから矛盾しているのです。

本物のキリストはユダヤ教 キリスト教 に 対立しています

ですから キリスト教は 反キリストになります。キリスト教のイエスは偽の救世主です。

ヨハネ
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。

理由はイエスという偽の名前にあります。

 偽yehshua             yehの救いという名前 yeh は異教の神の名前

本者 yahoshua   まえの2字が違う  ya hoshuaは  ヤウエ救いという名前

ヤホッシュア→ ヤシュア が本当の名前です。

 

2015年6月3日水曜日

神社に油を塗る アホ牧師 油は祝福されたものに 注がれるものは祝福されたものだ

http://www.sankei.com/affairs/news/150602/afr1506020011-n1.html

最近ド が付くほど あきれはてています。 殆どが キリスト教って こんな ものです
反社会的行為もそうであるが どこに 偶像や関係ない所に油を注げとかいてありますか
油注ぐのは 御霊による祝福 他宗教や偶像を 追い払うならまだ 水をかけるとかなら解る

こういう どこにもバイブルに書いていないことを 平気で信じ新しい教理を作り出し
付け加える新興宗教キリスト教 なのですが。

私がクリスチャンだったころ クリスチャンに物を貸したり 約束をしたり した事がありますが
90%以上の確立で 貸したものは帰ってこず 約束は連絡もなしに 破られます

人に質問を始めたかと思えば こちらが 答え半分で逃げ去ったり

この程度のクズの人間の集まりなのです 通常の社会でも通用しない どう見ても基地外です

自覚が無いのは自分がクズだからわからないと言うのが本当のところです。

最近SNSで牧師などが色々書いたり親しげにしていますが ほとんど 自教会への勧誘目的で御言葉の説明などサラサラする気なども持ち合わせてないようです。

と言うかバイブルを殆ど読んでおらずドシロウトがほとんどです。

本当に最近気を使わずにクズと言えるようになってしまいました。