2015年6月19日金曜日

キリスト教が隠したい 愛するという言葉の意味

ローマ
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

愛するというと思いと心 力 精神 をつくし戒め(申命記の教え)を守る事と聖書に書いてありますが又
私を愛するものは私の戒めを愛するとあります戒めとはトラーのことです
トラーは多様性があり一言では語れませんがトラーの中に愛でありみこころを悟りなさいと言う意味なのです。
トラー律法をキリストと切り離しトラーの重要性を隠し博愛 ヒューマニズムに置き換え 
違った福音に変え変質させているのです

キリストにより成就されたとラーは規定が廃棄されただけであり未だに変わらず有効です
人間的なヒューマニズムなどでは無くトラーを通して理解した御心なる愛で無ければならないのです
一面的な受け取り方は危険
キリストはは愛だとい う方がいらっしゃいますが 確かにそうですが 裁く方でもあり 試される方でも あります 一面だけではありません 人に受け入れやすいのは 愛の方と言えば心地よいので 人間的心地よいものを
信徒を集めやすいように利用しています 真の御言葉からは程遠い偽者のなっています
心にも無い偽善を撒き散らして糞まみれにしています。
 
  聖書を読めば一目両全ですが 愛という言葉には 練られることもあり 失敗により学ばされることもあります
私を愛するものは 私の戒めを愛すると言っておられます 受け入れやすいものもあれば 人にとっては 受け入れにくい ものもあります。 人間の創造する表向きな愛というものではありません。

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