2015年9月4日金曜日

キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事 転載

今も変わらないキリスト教 以下引用「

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400


(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。


数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
(以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

わたしはこれまで各種の日本キリシタン史を学んで来ましたが、この『天皇のロザリオ」を読むまでは、「奴隷」の内容について知りませんでした。しかし、こういう事実を知ったからには、同じキリスト教徒として真摯な態度で語り継いで行きたいと思います。

なお今年の1月30日に、第5版が発行された、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414~417」に奴隷売買のことが報告されていますが、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用がなされているにもかかわらず、「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は省かれています。

そして、「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉と説明して、売られた女性たちの末路の悲惨さを記しています。かなり護教的な論調が目立つ本です。

秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

2015年8月21日金曜日

創価学会の過ちキリスト教の過ち

キリスト教も全く同じです 特に
義教学上の問題を、公明厳正なる学的方法によって論究できる人はほとんどいなく、彼らの議論を見ると、ただ言い負けまいとするのみで真実を求めようとする研究心・求道心などは残念ながら見出せません。

教義や教理を振りかざしそれ自体歴史の過程で変質させられていることも知ろうとせず ただ 組織を守るだけの人の集まりであり マシア キリスト とは 全くかかわりが無いのがキリスト教です
キリスト教の教理では 贖いは成立しません

引用↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100003279872511&fref=ufi
創価学会の過ち
 
創価学会の特色教義として主張するものは、1に曼荼羅。2に釈尊脱仏・日蓮本仏。3に日興師唯一相承。4にご利益。以上の4つで出来上がっており、創価学会員には、教義教学上の問題を、公明厳正なる学的方法によって論究できる人はほとんどいなく、彼らの議論を見ると、ただ言い負けまいとするのみで真実を求めようとする研究心・求道心などは残念ながら見出せません。
 創価学会の曼荼羅の筆跡・座配から偽作を論証できます。また日蓮本仏論はいうまでもなく邪義、過ちです。この考察により創価学会の教義が、いかに間違ったものか、それがわかれば有りがたいです。
創価学会の曼荼羅には、若脳乱者頭破七分という文字が書かれているのが特徴的ですが、日蓮聖人はこの文字をお書きになられておりません。この文字は、法華経の二十六番目の陀羅尼品で唱えた呪文の一説であり、釈尊の敵となって脳乱するものは頭割れて七分になるという呪文なのです。
 次に、日蓮聖人は「本仏」で、法華経を説かれた釈尊は「脱仏」だということですが、御遺文のなかに、かつて日蓮聖人は一度も、日蓮は「本仏」なりと申されたところが、ただの一ケ所もないのです。つまり、お釈迦様を切り捨ててしまっている訳ですから、創価学会の御本尊は、頭が割れてしまうという恐ろしい御本尊なのです。
 さらに日興師への「唯授一人血脈相承」説ですが、この件に関しても創価学会が後付けした議論に過ぎません。
 最後にご利益だが、創価学会の初代会長である牧口常三郎氏は昭和19年に獄中に悲惨な病死をしている。曼荼羅を昼夜に祈念して、
幸福を願った創立者初代会長に、どうしてそのご利益がさずからなかったのか。あるいは第二代会長戸田城聖氏は昭和33年、積年の飲酒、アルコール中毒にたたられてまだ歳若なのに「肝臓硬化」で無残なる病死となった。
 以上のことから創価学会は1、偽物の曼荼羅について2、六老僧平等を日興唯一と僭称したこと3、教主釈尊を脱仏と否定して日蓮聖人を「本仏」としたこと4、ご利益を我欲と履き違えたことなどについて破折されなければならない。
 日蓮聖人を信じる上で大事なことは、自分の信仰が日蓮聖人の教えの正義を得ているかどうか。あるいは、自分の信仰がどれほど国家・社会を正しく導き得たか、否かである。
 会員の数や建造物の大きさなどは、日蓮聖人のお説きになられた成仏には関係のないことである。

2015年8月5日水曜日

まとめ キリスト教では贖いは成立しない 水曜日過ぎ越しに処刑


 キリスト教の購い              聖書に書かれている 購いの条件


金曜日の安息日に処刑               過ぎ越しの日に処刑
最後の晩餐                    過ぎ越しの食事
罪とは的外れ                   罪とは律法にさししめられたもの
ピラトにより処刑                 律法の罪によりユダヤにより処刑
みな許され救われる                信仰による救い
日曜礼拝                     安息日
ユダヤ教がベース                 モーセがベース


自分で考えない栗ちゃんには 理解不能

2015年7月12日日曜日

栗チャンというドウショウモ無い人たち

使途信条はまともですか?
キリストの贖いとは
罪とは
許しとは
ニケア会議とは
秀吉が栗ちゃんを迫害した理由とは
教会の政界とのつながり (アメリカ版創価学会宗教マフィア)


クリスチャンは自分で聖書を読まず 教会のの話を 鵜呑みにするだけで 何事もAはBとは違います
大は小を兼ねる これぐらいの事しか理解が出来ない 最大のDQN ですね

自分で調べてみてください 最大の アホ であり 思い上がった クズ です

三位一体  聖霊様 罪の許しとは 教会で牧師が話していることは どこにも書いてありません

元々理解する気も無く 重要な 事柄 を 知らなくても 栗チャン と 平気で名乗れる 人たちは何者なのでしょう

栗ちゃんの皆さんは 社会的なアイデンティティーを得ているだけの 単なる新興宗教

キリスト教会の腐った歴史はご存知でしょうか?金 政治とのかかわり  有名牧師の私生活

何でもありの 油で清める 携挙 統治主義  歪められた贖い 非聖書的な教理 

祝福されると富む=金持ちになれる
 
一般人でも ドン引き なるほどの バカ 洗脳  感情の劣化 状態にも気づかない状態がもはや普通と思っている栗ちゃんは薬中 泥酔 状態

↑ 基地外の新興宗教だと気がつかないのは アホ か クズ です 自己をアホかクズだと認めるところから
真実の道は始まります。 罪の自覚が無ければ 贖いも悔い改めも存在しません

今まで信じていたものを 失うのは 怖いでしょうが 信じるべき本物はあります。
 
 

2015年7月5日日曜日

ユダヤは旧約聖書の民か

ルカ 7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝え をかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。 7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。 7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
文中に頻繁に書かれている 言い伝え とは タルムッドトラーのことです タルムッドトラー とはモーセのトラーに付け加えをしたものです 奥深いものも ありますが 解りやすいものを 上げますと  モーセのトラーは  帽子は大祭司しか被るな  ユダヤは黒い帽子を被っています   メノラーはランプで作れ と書いてありますが ユダヤやキリスト教はろうそくを使います  この様にもともとの教えに付け加えたり 変更させたりしています キリスト教も 神の無償の愛 といいますが 信仰による救い という 条件が 課されていますが そのような事は 一言も言いません 救いはアブラハムによる 信仰によるのです。 (キリストの) 

この様な 主な部分 を 変えて伝えています キリスト教のタルムッドに対する評価は聖書の解説書だそうです キリストが忌み嫌うものを 評価しています 一度牧師にタルムッドに関する評価を着てみてください ですから 間違いなく キリスト教は 反キリストの組織なのです ユダヤもキリスト教も聖書の民なのではなく 古い 新興宗教なのです。 レビに払うべき十一献金を教会にせよ とか 牧師が勝手なメッセージなどをして 基の教えに 付け加えをしているのです

2015年6月21日日曜日

音声解説付き 過ぎ越しの購いを隠すキリスト教のサタニズム

マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。

レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない
23:7 その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。

↑レビ記の記述とマタイの過越の日程が異なるのが解る

 

、除酵祭の第一日に過ぎ越しの食事はしない 、除酵祭の前の日が過ぎこしなのである なぜ 意図的に このような 操作をしたのか 

すなわち除酵祭の最初 である キリスト を 金曜日の安息日 に 処刑されたキリストに摩り替えることにより律法の購いの意味を変えるためである
受難日とは言うが 過ぎ越しの日とは言わないのはそのためでる

正確には
火曜の日没~水曜の日没 → 過ぎ越し
水曜の日没→木曜の日没 →、除酵祭の第一日 働いてはいけない

水曜日没
木曜の日没
金曜の日没
土曜の日没

土曜の日没後復活
日曜の朝マグだらのマリアが墓に行く

律法の成就のため過ぎ越しの日に購いとなられた

2015年6月19日金曜日

キリスト教が隠したい 愛するという言葉の意味

ローマ
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

愛するというと思いと心 力 精神 をつくし戒め(申命記の教え)を守る事と聖書に書いてありますが又
私を愛するものは私の戒めを愛するとあります戒めとはトラーのことです
トラーは多様性があり一言では語れませんがトラーの中に愛でありみこころを悟りなさいと言う意味なのです。
トラー律法をキリストと切り離しトラーの重要性を隠し博愛 ヒューマニズムに置き換え 
違った福音に変え変質させているのです

キリストにより成就されたとラーは規定が廃棄されただけであり未だに変わらず有効です
人間的なヒューマニズムなどでは無くトラーを通して理解した御心なる愛で無ければならないのです
一面的な受け取り方は危険
キリストはは愛だとい う方がいらっしゃいますが 確かにそうですが 裁く方でもあり 試される方でも あります 一面だけではありません 人に受け入れやすいのは 愛の方と言えば心地よいので 人間的心地よいものを
信徒を集めやすいように利用しています 真の御言葉からは程遠い偽者のなっています
心にも無い偽善を撒き散らして糞まみれにしています。
 
  聖書を読めば一目両全ですが 愛という言葉には 練られることもあり 失敗により学ばされることもあります
私を愛するものは 私の戒めを愛すると言っておられます 受け入れやすいものもあれば 人にとっては 受け入れにくい ものもあります。 人間の創造する表向きな愛というものではありません。

2015年6月12日金曜日

わたしの罪により キリストが十字架にかかり 贖ってくださった は 大嘘


 
キリストはトラーの罪によって罪無き方であるのに全き子羊として過ぎ越しの生贄として処刑されました。  
よく勘違いされているのは 原罪と言う視点から見られる事が多いのですが トラーは完全であると書いてありますので 原罪も含んであるはずです。
ですから 罪は 的外れ と キリスト教会は教えていますが 
これこそ 的外れで トラー 律法による罪を罪とバイブルでははっきり何度も言っています 

ガラテヤ
2:19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身

このような事は学者であればわかるはずですが そういってしまうと 何か不都合があるのかもしれません やはり キリスト教会ではキリストの購いの真相をを隠したいようです。
ローマ
7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

よくあなたの罪私の罪の為と言いますが トラー律法の罪の為です あなたの罪は限定的で 原罪をさしているように思います。トラーの言っている完全な罪の許しでなければなりません。トラー律法による罪>私の罪です  人間は原罪があるので罪が解らないと書いてあります ですから 律法なしに 感覚的な 罪だけでは わからない と言っているのです  罪が解らずに 何から 購い出された と言えるのでしょうか



罪とは何かローマ署にはっきり何度も書いてあります。
ローマ
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
5:11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
5:13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
5:16 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
5:20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
5:21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

2015年6月9日火曜日

動画によるブログ解説  騙されています キリスト教に ブログ解説

 
訂正とお詫び キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇ったは
聖書の記述が正確でないため一部証明できない箇所があります 正確に調べて後ほどお知らせします
マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない

使途信条では贖いは成立しない

使途信条では贖いは成立しない
使途信条でポンテオピラトに十字架に付けられた事になっていますが
キリストは律法を全うする為 成就させるために来たと言っておられます。ローマ人であるピラトの外国人による外国の法律により処刑されたのであれば罪なき 全き 子羊で 律法の裁きにより 過ぎ越しの日に律法により処刑されなければ 律法の成就にはいたりません
これ 聖書を読めば常識です。 外国人によって 処刑されても律法の成就にはいたりませんから 贖いは成立しません  そこを言わなければ贖いの意味が無いので無力化されているだけです。
...
例のテレビでおなじみのアホおじさんが youtubeで説明していますが
このような ニケア信条 381年に作られた キリストの弟子の教えとは無関係なものを教理とし弟子の教えとしています。コンスタンチヌスが統治しやすいよう変質させたもので ご丁寧に キリスト教が キリストの贖いの意味をずらし 反キリストに 貢献しているわけですからお笑いです。

キリステ教のみなさん今日は 今日も聖書を読んでいますか

キリステ教のみなさん今日は 今日も鼻くそをほじりながら聖書を読んでいますか


訂正とお詫び キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇ったは
聖書の記述が正確でないため一部証明できない箇所があります 正確に調べて後ほどお知らせします
マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない


常識とされているうことですが↓ これらは 真っ赤なうそです。
これを↓否定すればキリスト教ではなくなるらしいですが
聖書を読めば解はずです。ただし 鼻くそをほじりながら似非牧師の教理だけ聞いているだけの信仰心の無い自分で考えない阿保にはわかりません。いわゆる 洗脳状態で言われたことをオウム返しにするだけです。生活に信仰の無い人の証明なのです 残念ながら 牧師をはじめほとんどがそういう人たちばかりになっていました。

キリストはワタスの罪のために十字架にかかりました。
ポンテオピラトにより十字架にかかりました。
★神は三位一体である
罪とは的外れと言う意味である
ユダヤ教から出たのがキリスト教である
キリスト教はキリストの弟子から始まった
★キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇った
十一献金はマラキに書いてある

これらは全て嘘です 何の根拠もありません どれひとつ聖書にも書いてありません。
ぜひ どこに書いてあるか 探してみてください。あったらおしえてください


キリストはワタスの罪のために十字架にかかりました。 

 どこにワタシの罪と書いてありますか?新訳で探しましたが一箇所もありません

ポンテオピラトにより十字架にかかりました。

 ピラトは私には関係が無いといって手を洗っています。

罪とは的外れと言う意味である
 
 罪とは律法の指すものとかかれています

ユダヤ教から出たのがキリスト教である

  キリストは終始ユダヤ教の学者と対立しています。

ユダヤ教から出たのがキリスト教である

 キリスト教会の始祖はペテロだそうですがパウロは無割礼のもの ペテロは割礼のもの
つまりペテロはユダヤ人や北イスラエルに使わされたといっていますからこれも聖書にはありません。


キリストは金曜日の安息日の昼に処刑され日曜日に蘇った

 ヨナのしるしは3日3夜ですから日にちが合いません これには重要な意味が隠されています。

十一献金はマラキに書いてある

 十一献金はレビにせよと書いてあります。レビは今キリストが大祭司を勤めているので
レビはいません


これは実際聖書に書いてあることです 本当かどうか 鼻くそをほじくりながら調べてみてください
バカさ加減がわかります

★は後に決められたことですキリストの教えとは関係がありません。

ひとつづつ 記事にしていきます

2015年6月8日月曜日

ユダヤ教とキリスト教  は キリスト自身に対抗する

ユダヤ教とキリスト教  ユダヤ教が旧約聖書で キリスト教が新約聖書

ユダヤ教は 律法(情けが無く融通が利かない)ので キリストの愛がわからずキリストをを殺した

と言うのが通説ですキリストはユダヤ教の無慈悲によって殺されたのですと彼らはいっているのです。
 
 
 
しかし真実はそうではなく ユダヤ教がモーセの教えと異なっていたことから 始まります。
 
例えば わかりやすい例をあげると モーセは大祭司しか帽子をかぶるなと言っていますが ユダヤ教はみんな被っています
メノラーはろうそくで作っていますが モーセはランプで作れといっています
アブラハムは御使いを ミルクと肉でもてなしていますが ユダヤは厳格に分けて食事しています。
 
簡単な例を挙げればわかるようにヘブライ信仰(モーセ)の教えを随分歪めたのがユダヤ教です
その他にもタルムッドというものがあり 関係ない教えを付け加えています。

キリストはヘブライ信仰から出ています  から これら ユダヤ教の付け加えられた教理と対立しています。本当に殺された理由はそこにあります。

構図は ヘブライ信仰 本物のキリスト vs ユダヤ教 キリスト教 ということになります。

キリスト教の母体はユダヤ教になっていますキリスト教が対立するキリストを崇めているのですから矛盾しているのです。

本物のキリストはユダヤ教 キリスト教 に 対立しています

ですから キリスト教は 反キリストになります。キリスト教のイエスは偽の救世主です。

ヨハネ
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。

理由はイエスという偽の名前にあります。

 偽yehshua             yehの救いという名前 yeh は異教の神の名前

本者 yahoshua   まえの2字が違う  ya hoshuaは  ヤウエ救いという名前

ヤホッシュア→ ヤシュア が本当の名前です。

 

2015年6月3日水曜日

神社に油を塗る アホ牧師 油は祝福されたものに 注がれるものは祝福されたものだ

http://www.sankei.com/affairs/news/150602/afr1506020011-n1.html

最近ド が付くほど あきれはてています。 殆どが キリスト教って こんな ものです
反社会的行為もそうであるが どこに 偶像や関係ない所に油を注げとかいてありますか
油注ぐのは 御霊による祝福 他宗教や偶像を 追い払うならまだ 水をかけるとかなら解る

こういう どこにもバイブルに書いていないことを 平気で信じ新しい教理を作り出し
付け加える新興宗教キリスト教 なのですが。

私がクリスチャンだったころ クリスチャンに物を貸したり 約束をしたり した事がありますが
90%以上の確立で 貸したものは帰ってこず 約束は連絡もなしに 破られます

人に質問を始めたかと思えば こちらが 答え半分で逃げ去ったり

この程度のクズの人間の集まりなのです 通常の社会でも通用しない どう見ても基地外です

自覚が無いのは自分がクズだからわからないと言うのが本当のところです。

最近SNSで牧師などが色々書いたり親しげにしていますが ほとんど 自教会への勧誘目的で御言葉の説明などサラサラする気なども持ち合わせてないようです。

と言うかバイブルを殆ど読んでおらずドシロウトがほとんどです。

本当に最近気を使わずにクズと言えるようになってしまいました。

2015年5月28日木曜日

クリスチャンの言う罪の許しとは

クリスチャンの言う罪の許しとは
よく クリスチャンの方からこういう話を聞いたことがある方が多いと思います

下のような例は引用の部分  もともと 聖書から出た話ではありません 聖書では信仰による義と言っています ですからこの殺人ギャングがキリストを信じれば 罪が許されると言う事ですが このギャングがキリストを受け入れなければ罪は許されない事になります 勝手に自分で新しい律法を作り許すとかどうかを 決めているのであり とんだ見当違いナ事を言っているのが本当です 但し犯人がキリストの信仰者のときは変わりますが 信仰者が殺人をするのであれば 信仰は疑われますので容易に許すとか 言わないほうが言いかと思います
信仰による義と書かれていますので信仰がなくして許されることはありません 信じれば許されるのであyるって
許されるから信じると言うのは御心ではありません。 殺してはならないとはっきり書いてあります。

 キリスト教の罪に対しての考え方
http://www.nishikobe-kyokai.or.jp/chfaq/chfaq00054.htm
このような許しは新興宗教といえます言っておきますがガラテヤから少し新しい契約の内容が変わっています

最初に誤解なきよう言っておきますがガラテヤから少し新しい契約の内容が変わっています 簡単に言えば 律法の規定の廃止ということなのですが 今回は説明しません

律法をすべて守り成就させるためです。罪なき子羊↓
5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。


22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

↓何を言っているのか申命記の参照6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

どういっていますか?戒めを
愛せよといっておられますね?

外国人に救いが言った理由↓
2:12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。
はきり律法の罪と書いてあります 信仰の儀ということで律法を守ることの儀ではなく といっています
2:19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

まとめると規定以外の律法 御心 を 信仰を持って守りなさい といっているのです
守ったか破ったかという書き方はしてありません。


聖書の言う罪とは

以下引用 阿修羅掲示板より
私は キリスト教の教会に通っていた時期がありました
私は 洗礼を受けたキリスト教徒だったのです
20年くらい前ですけどね 通っていたのは意が
約3年間 通っていました

何から話せばいいのか わかりませんが
キリスト教の 罪の許し(赦し)につきますかな
そこの牧師さんが
キリスト教の罪の許し(赦し)の話しを しました
その方は アメリカに滞在されていたことがありまして
アメリカで
何の罪のない一般人の人が
ギャングに殺されたらしいのです
道でからまれた とかそういう話しだったと思いますが
で、殺された息子の親御さんが 敬虔なクリスチャンだったらしいのですが
息子を殺したギャングを その親御さんは無条件に許したらしいのです
殺したのに 反省を全くしてない勝ち組ギャングをです
そして その牧師さんは 息子を道でからんで殺したギャングを無条件に許した その親御さんに対して
それを 素晴らしいみたいなことを 言っていたんですよ 

でも それ
素晴らしいんですかね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちなみに その牧師さん
今、中学の教師をされてるらしいんですよ
わりあい 有名な中学です
いや、べつにそこまで出世されたこと自体はいいんですが
それ 生徒の子たちに その話し 今もしてるんですか

私 その方に お世話になったので
お世話になりすぎたので
そのギャングの件の 罪の許しのこと
20年経っても ずっと引きずっているんですよ
ええ
キリスト教徒をやめて 20年くらいになるのに
20年経っても その呪縛が解けないんですよ
ずっと鍵がかかったような状態が 続いてるのです
私 70や80になっても 死んでも この呪縛 一生解けないんですよ

ふつうの一般人の人が ギャングに殺されても
親が信仰に従って それを許すことが 素晴らしいことなのだから
例えば 自分の奥さんや娘が
ヤンキーやヤクザたちに 次々と身体を奪われ 輪姦をされて
どうにもならない餌食にされても
やっぱり それを許すことは 素晴らしいんですよね
同じことですよね 違うってことないですよね

それが 「キリスト教」ですよ
それはおかしいだろー と思われる方もいらっしゃるかと思いますが
これが 「キリスト教」なんですよ

救いとは

キリスト教の救いとは 実生活に置ける救いと 根源的な救いと言っていますが
聖書に書いてあるのは 律法の罪からの救いとはっきり書いてあります。
パウロはトラーは完全であると言っているので原罪も含まれることになります。
トラーの指し示しているものが解らなければ何から救われたのかさえ解りません。
トラー律法の罪の死からの救いというのは明白です。
まとはずれ  とは ごまかしです 
 
律法的という言葉
キリストは律法をすべて守っておられました 守っていなければ義の供え物全き子羊には成りえません
律法トラーはアバヤウエの御心なので本来裁く為の法と言う意味ではありません
トラー的律法的とはキリスト的と言う意味です。
律法的と言って批判する事はキリストを批判する言葉です
この事にお気づきでしょうか? うそだと思うならよく調べてください
律法はキリストの贖いによって成就していますので契約は変わってはいますが律法的と言って批判することが
いかにばかばかしい事かわかるはずです

2015年5月25日月曜日

本当にみんなが 思いやりのある 人になったら 世の中は 良くなるか?

本当にみんなが 思いやりのある 人になったら 世の中は 良くなるか?

答えはNoです  今よりは 随分 よくなるかも 知れませんが

人間の本質というものが関わっているように思うのです。

歳を重ねてきた経験から言えば人の弱点は

自分を守るという本質が関わっているように思います

何かをしなければ 自分の存在が危うい とか 誰かにやられるとか

本来 人々が作り出している 相互作用の恐怖心 妄想 のような もの だからです。

すべての戦争から 細かな 家庭の事などのいさかいは 

このような 恐怖心から 発生しているように思います。

現実的には悪が存在しているので戦いは必要なのですが

ほとんどは 妄想みたいなものでです。

安心という 心の問題は どれを 解決しても 次々  

と 生まれ出てくるものです。

すべてを解決しても 最後に残るのは死という恐怖が 残ります

この世の栄光は死というもの前には 心の平安を得る解決策にはなりません。

一時的には平安は得られても絶対的なものを得られる確信が無ければそれは最終的には無理な事です

生半可な宗教や思い込みのようなものでは 平安でいられる事は

すぐに 剥げ落ちてしまいます。つまりだまされていた という事を悟ると

今まで以上に用心深くなってしまいます。

この恐怖心がある以上自分を守る事を最終的にはするのが 人間のむなしさというものです。

おそらくこれは 最初に アダムとエバから継承している原罪の本質のように思います。

又その様な不安になる事を考えて ほとんどの人が今 と いう 時 を 生きていないと 言うのが実情です。 

解決するには絶対的なものへの信仰心というものが必要になる

というのが結論です。

2015年5月24日日曜日

絶対的なもの

絶対的なものとは一般人であれば 宇宙の法則 でも 地球外生物でも 何でもかまいません 

何かとてつもないパワーで信じられない事をしたり いろいろですが 

この世に生きていても 確かな事は 何もありません

そんな事は無いという方も多いでしょうが


通勤で家から会社へと移動したとして 

会社→家へ と言うように 場所を決めれば 移動したと言えますが 無限の空間で端がなければ

これはどちらが動いたのか わかりません 

ちょうど 駅で隣に電車が止まっていて 片方が動いてもどちらが動いたのかわかりません。

駅を基準にして初めてどちらが動いたのかを 語ることができます。

これらは 相対的な事でしかなく

この世に生きているのは 限られた世界で生きている と言う事がお解かりいただけるかと 思います。

ですから 絶対的なものは わからないのですが

 私は その 絶対的なものの 存在があり それに人格があり 名前があると 思っています。

ヤウエ という 名前です。私は存在の存在である ヤウエだと思っています。

何故そう思うのかはいくつかの理屈はあっても わかりませんが 信じられない人は信じられないと思っています。

存在の存在とは

出エジプトの時モーゼがシナイ山で燃える芝の中で聞きましたあなたの名前はなんですか存在の存在であると答えられました(YAHWHE)存在の存在とはですからあってあるものと言う言い方もされています 時間空間多次元を想像した存在ということです

世の中の事はほとんどのことが証明できることではありません
例えば家から会社に行ったと言う事は言えますか
無限の空間の中では移動するということすら証明できません
無限の空間では端と端がないからです 
時間に関しても同じことが言えます
このように次元を限定しなければ何も証明できないのです

単に私たちは映し出された映像の中のようなところで生きてるのかもしれません
人間から見れば宇宙の法則地球外生命宇宙人何でも結構です感覚的にはそういうものです
しかし八百万の神であっても仏像であっても物のなので存在の存在ということではありません

ヘブライ信仰では面白い事に この存在に名前があり人格があるということです名前はヤウエであり人格はメシアを通して伝えられました


宗教とは霊とは


古いアニメに巨人の星というのがあります 星ヒューマと言うのは主人公なのですヒューマに憧れて野球選手になりたいと思った人もいるでしょう その人の中には飛雄馬は生きているのです 彼を励みに練習して野球選手になろうとしているからです 飛雄馬は架空の人物ですが彼の中では生きていますこれが霊と言われるものです 

ですから霊というものは何においても存在するのです 人間が意識や信仰によって作り上げた世界なのです

しかし飛雄馬は実在すると言われればどうでしょう 架空の人物です このようにないものをあると言うのが宗教なのです
しかし王貞治は実在しています王貞治がいるというのは宗教ではありませんしかし王貞治の霊というのは感じにくいものですが確かに存在していますこの件のように王貞治は宗教でも何でもありません

しかし実際は「架空の存在で作り上げた方が力というものはあるものです ですから宗教は霊的だと言えます その善し悪しは別としても 本当は存在して霊があるものが真実なのですが

人が認識しやすいのは霊の強弱やわかりやすいかどうかと言う事もあります 日本人には気という漢字のほうがフィーリングとしては捉えやすいかもしれません。

他にも霊としては道徳や礼節というものも 実在するでしょうが国や宗教が違えば変わってしまいます生活する上で知っておかなければ都合が悪いですが これらも真実とは言えません
 ほとんどの人はこんなことを基準にして生きているのですか
実は現実を生きているとは言えないのではないのしょうか
社会のルールや道徳は問題を解決しているかのように見えても本質的なところでは何も解決できていません